◆ 胃ろうの「是非」、問わないで
胃ろうの「是非」は問わんでも、胃ろうを造設してまで生きたいのかどうかは話し合っとく必要があるやろな。
口からモノを食えんようになった人にとって、胃ろうが「便利な道具」なんは誰も否定せんけど…
講演の中で会田氏は、医師との十分な相談が必要とした上で、▽頭やのど、食道などのがん▽ALS(筋萎縮性側索硬化症)などの神経難病▽クローン病などの腸の病気-などの場合には、生活の質(QOL)の改善のために、胃ろうは有効な選択肢になり得ると紹介した。
こういう特殊なケースはありにしても、誤嚥防止の為に胃ろうを造設するケースが増えてるわけで、これはどうするか話し合っとくべきやろ。
これって、本人の為ってより、介護者が楽をする為のもんやからな。
胃ろうを造設せんと食事の介助が必要になるわけで、これがなくなるのは大きい。
って事は、胃ろうを造設した本人にとっては、食事の時間ってもんがなくなるわけで、少なからずあった食事中のコミュニケーションってもんもなくなる。
食堂に集まって、ワイワイ、ガヤガヤってのもなくなるわけで、当然、集団からも離れて行くし、誤嚥で死ぬ心配もないから、家族も含めて、人があんまり来んようになる。
寝たきりになってなくても、こういう淋しい末路が待ってる。
それでも生きてたいんかどうか話し合っとくべきやろな。
ちゅうか、そもそも、人間っちゅうか、生き物が自力でモノを食えんようになるって事は、イコール死を意味するわけで、「便利な道具」で生き長らえても、生き物としての本質を失ってるのに、生きてても楽しくないやろ。
胃ろうの「是非」を問うか問わんかよりも、人としてどういう最期を送りたいかって事の方が重要なわけで、議論すべきは「安楽死」なんやと思う。
世論的には、延命治療を望まない「尊厳死」はありの方向になりつつあるけど、積極的に死を選ぶ「安楽死」はまだまだ否定的。
個人的には、こっちをもっと議論するべきやと思うな。
何にしても、胃ろう造設してでも生きたい人は生きれば良いし、そんな事をするぐらいなら死にたいって人は死なせてあげれば良い。
どっちも、「自分の意志」で選択できるようにして欲しいもんです。
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胃ろうという選択、しない選択 「平穏死」から考える胃ろうの功と罪
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