◆ 幸村落ち延びた? 薩摩に伝説
大阪城から三光神社(真田丸跡地)に「真田の抜け穴」があるから、そこから幸村と秀頼が鹿児島に落ち延びたって伝説が語られてて…
幸村の薩摩落ち伝説は京童たちが歌った「花の様(やう)なる秀頼様を、鬼のやうなる真田がつれて、退(の)きものいたよ加護島(かごしま)へ」との歌で有名になったといわれる。伝説の地は、同市頴娃(えい)町の雪丸集落。南国鹿児島で雪がつく地名は珍しく、幸村がなまったと伝わる。
墓とされる石塔は、山中にあり、墓石は島津家が「特別な石材」とした山川石製。文字や模様は刻まれていない。墓に通じる坂道は地元で「とんどん坂(殿どの坂)」と言われ、雪丸自治会の雪丸重光会長(68)は「親から近づかないように言いつけられていた」と話す。
墓には丸い小石がたくさん供えられている。これは幸村の子を身ごもった女性を徳川の追っ手から守るため同町の大川地区に嫁がせ、その子孫が墓参りの際に小石をさい銭代わりに置いたとされる。その女性が産んだ男の子は、真田の2文字の間に江という字を挟んだ「真江田(まえだ)」の姓を名乗った。真江田家の墓には真田の家紋「六文銭」が刻まれている。
こういう伝説も残ってて、これが…
天草四郎
天草四郎が豊臣秀頼の落胤であるとする説は、四郎の馬印が豊臣秀吉のものと同じ瓢箪であることなどから、大坂夏の陣において死亡したはずの秀頼が大坂城を脱出して薩摩へ逃れていたとする論拠で、豊臣家権威の糾合を図ったとも考えられている。「豊臣秀綱」という名があったと鹿児島所有の書物に記されている。
天草四郎に繋がるっちゅう何ともロマン溢れる話なんやけど、どこまで信憑性があるんやろな。
「真江田」と「六文銭」の話は、結構信じたくなる話やけど(笑)
まぁ…
片倉重長
片倉 重長(かたくら しげなが)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。仙台藩伊達氏の家臣。
(中略)
後妻は阿梅(真田信繁(幸村)の娘)。
幸村の娘が鬼の小十郎の後妻になっとるし、そういう話があってもおかしくはないわな。
おかしくはないけど、それを信じるのもちょっとアレなんで、この際、徹底的に調べて欲しいもんですな。
まぁ、こういうのは、分からんまま「あぁでもない、こぉでもない」って言うのが楽しいんやけど(笑)
明らかにして欲しいような、このまま「謎」のままにしといて欲しいような、ちょっと複雑な気分です。
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仙台真田氏物語: 幸村の遺志を守った娘、阿梅
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