光母子殺害・判決要旨
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▼(4)被害者に対する強姦行為について

(ア)被告人は当審公判で、性欲を満たすために被害者を姦淫したことや、強姦の犯意および計画性を否認する供述をした。そして、被害者が死亡していることに気付いた後、山田風太郎の「魔界転生」という小説にあるように、姦淫することによって復活の儀式ができると思っていたから、生き返って欲しいという思いで被害者を姦淫したなどと供述している。

(イ)しかし、被告人は被害者の死亡を確認した後、その乳房を露出させてもてあそび、姦淫行為におよび射精しているところ、この一連の行為をみる限り、性欲を満たすため姦淫行為に及んだと推認するのが合理的である。しかも、被告人は捜査段階のごく初期を除き、姦淫を遂げるために被害者を殺害した旨一貫して供述していた上、第1審公判においても、性欲を満たすために姦淫した旨明確に供述している。また、被告人の新供述によれば、被告人は姦淫した後すぐに被害者の遺体を押し入れの中に入れており、脈や呼吸を確認するなど同女が生き返ったかどうか確認する行為を一切していない。被告人の行動をみる限り、被害者を姦淫した目的が同女を生き返らせることにあったとみることはできない。

さらに死亡した女性が姦淫により生き返るということ自体、荒唐無稽(むけい)な発想であって、被告人が実際にこのようなことを思いついたのか、甚だ疑わしい。被告人が挙げた「魔界転生」という小説では、瀕死(ひんし)の状態にある男性が女性と性交することにより、その女性の胎内に生まれ変わり、この世に出るというのであって、死亡した女性が姦淫により生き返るというものとは相当異なっている。そして、死者が女性の胎内に生まれ変わりこの世に現れるというのは、「魔界転生」という小説の骨格をなす事項であって、実際に「魔界転生」を読んだ者であれば、それを誤って記憶するはずがなく、したがって、その小説を読んだ記憶から、死んだ女性を生き返らせるために姦淫するという発想が浮かぶこともあり得ない。被害者を姦淫したのは、性欲を満たすためではなく、生き返らせるためであったという被告人の供述は到底信用できない。

(ウ)また、被告人は当審公判で、被害者を通して亡くなった実母を見ており、お母さんに甘えたいという気持ちから被害者に抱きついた旨供述している。しかし、被害者に甘えるために抱きついたというのは、同女の頚部を絞めつけて殺害し、性的欲求を満たすため同女を姦淫したという一連の行為とはあまりにもかけ離れているといわねばならず、新供述は不自然である。

しかも、被告人は捜査のごく初期の段階から一貫して、強姦するつもりで被害者に抱きついた旨供述しており、第1審公判においても、強姦しようと思った時期について供述し、襲ってもあまり抵抗しないのではないか、多少抵抗を受けても強姦できると思いこんだ旨供述していた。

さらに、被告人は当審公判で、玄関ドアを開けた被害者が左腕に被害児を抱いているのを見て、淡い気持ちを抱いた旨供述している。

しかし、被告人は捜査段階においては、玄関で応対した被害者が被害児を抱いていたとは一度も供述していない。被告人は被害者方に入った後、トイレで作業をしているふりをしてから風呂場に行き、そこを出たところで被害児を抱いて立っている被害者を見て、初めて同児の存在を知った旨供述していたのである。このような犯行前の経緯は被告人が供述しない限り、捜査官が知り得ない事情であるのみならず、新供述と対比して、犯罪の成否や量刑に格別差異をもたらすものではないのであるから、捜査官が真実と異なる内容の供述をあえて被告人に押しつける必要性に乏しいというべきである。また、被告人としても、このような事情について、真実とは異なる供述をする理由というのも考えられない。犯行前の経緯に関する被告人の上記供述は信用できない。

(エ)被告人は当審公判で、戸別訪問をしたのは人との会話を通して寂しさを紛らわし、何らかのぬくもりが欲しかったからであり、強姦を目的とした物色行為をしたのではない旨供述する。

(あ)しかし、被告人は各部屋を訪問した際、玄関で「排水検査に来ました。トイレの水を流してください」などと言うのみで、その住民が水を流して玄関に戻っても、会話しようという素振りもなく立ち去ったり、住民がトイレの水を流している間に玄関に戻って来るのを待つことなく立ち去っている。このような被告人の行動は人との会話を通して寂しさを紛らわすために訪問した者の行動として、不自然との感を免れない。そのように立ち去った理由について、被告人はゲーム感覚になっており、ロールプレーイングゲームの中で登場人物が同じせりふしか言えないのと同じ状態で一定の言葉しか紡げない状況下、機械的な感じで、すぐその場を離れるようになった旨供述するが、被告人のいう訪問目的とは担当趣旨が異なっている。

(い)しかも、被告人は第1審公判で、強姦の計画性を否認する供述をしていたものの、最終的には、戸別訪問を開始した時点で、半信半疑ながらも強姦によってでも性行為をしたいなどと考え始めていたことを認める供述をした。強姦の計画性を争っていた被告人が、供述を強制されることのない法廷で任意にした上記第1審の公判供述は高度の信用性が認められるというべきであり、強姦については、この供述で述べられた程度の計画性があったことは動かし難い事実であって、これに反する被告人の当審公判供述は信用できない。

(オ)ところで、加藤意見では、本件は強姦目的の事案ではなく、母胎回帰ストーリーともいうべき動機が存在するというのである。すなわち、被告人は母子一体の世界(幼児的万能感)を希求する気持ちが大きい。被告人は本件当日の昼、義母に甘えたものの、それが満たされずに自宅を出ることになったため、人恋しい気持ちに駆られ、自分を受け入れてくれる人との出会いを求め戸別訪問をした。そして、被告人を優しく部屋に招き入れてくれ、赤ん坊を抱く被害者の中に、亡くなった母親の香りを感じ、母親類似の愛着的心情を投影し、甘えを受け入れて欲しいという感情を抑えることができなくなり抱きついたところ、予期しない抵抗にあって平常心を失い、過剰反応として反撃した。そして、被害者の死を受け入れられず、戸惑いから非現実的な行為に導かれた。それは、自分を母親の胎内に回帰させることであり、母子一体感の実現であり、被告人はその行為に「死と再生」の願いを託した、というのである。

しかし、加藤意見は被告人の新供述に全面的に依拠しているところ、被告人の新供述中、人恋しさから戸別訪問をした、玄関で対応した被害者が被害児を抱いていた、被害者に甘えたくて抱きついた、被害者を生き返らせるために姦淫したという供述は到底信用できないのであるから、加藤意見はその前提を欠いており失当である。

(6)へ続く
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