死刑停止を求める声は受け入れられなかった
初めて面会に行った時、彼はニコニコしていました。その笑顔を見て負けちゃったんですよ。なぜ面会に行ったのかというと、裁判ではわからなかったいろいろなことが彼から聞けると思ったし、謝罪も直接受けたかったからです。手紙にもいつも謝罪の言葉を書いてきていましたが、やっぱり顔を合わせながら謝罪を受けるというのが一番いいんじゃないでしょうか。長谷川君からは何百通も手紙をもらいましたが、それでも20分の面会の重みにはかないません。表情や話し方、仕草などからいろいろなことを感じ取れるのです。
だからといって長谷川君を許したわけではありません。情が移ったからと許せるほど簡単な話ではないのです。ただ、彼が本当に「謝りたい」という気持ちをもっているということは感じられました。そして僕自身、彼から直接謝罪の言葉を聞くことで、誰のどんな慰めよりも癒されていくように思ったのです。長い間、孤独のなかで苦しみ続けてきた僕の気持ちを真正面から受け止めてくれる存在は長谷川君だけだと感じたのです。
しかし「長谷川君」が本当は何を考えていたのかはわからないと原田さんは言う。面会して謝罪の言葉を聞き、ある程度は気持ちが落ち着くという経験をした原田さんの心には「長谷川君には死んでほしくない」という気持ちが芽生えていた。その気持ちを原田さんは「江戸時代の敵討ちでもなく、被害者やその遺族を蚊帳の外に置く近代司法制度でもなく、被害者遺族が心を快復させるための第三の道を探り始めた、と言ってもいいかもしれません」と表現する。
「死刑とは何か。死刑制度は誰のためにあるのか」。原田さんは死刑や死刑制度について考えるようになっていた。そして「長谷川君」の3審の弁護を担当した稲垣弁護士を訪ね、アドバイスを受けたうえで「(今は)死刑を望まない」と書いた上申書を最高裁に郵送した。「一般論としての死刑廃止ではなく、長谷川君の減刑でもなく、僕が納得するまで彼と会わせてほしい、そのために死刑はまだ執行しないでほしい」という気持ちからだった。
その一週間後の'93年9月、上告が棄却され、死刑が確定した。「長谷川君」はいつ死刑執行されてもおかしくない「死刑囚」となったのである。本来、死刑が確定すると親族以外は面会できない。死刑囚の「心情の安定のため」とされている(原田さんの場合は被害者遺族という事情が考慮されたのか、確定後も3度だけ面会ができた)。「長谷川君が何を思っていたか、僕のことをどう考えていたのか、どういう希望をもって拘置所で生活していたのか、もっと知りたかった」という原田さんにとって、面会を制限されたうえにいつ死刑が執行されるかわからない状況は納得できるものではなかった。
原田さんはその後、何度も死刑停止を求める嘆願書を法務省に提出した。'01年には当時の高村法務大臣と直接会って上申書を渡した。しかし大臣と会った数ヵ月後に、「長谷川君」の死刑は執行されたのである。
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