「KY」っちゅう言葉が流行るのは何だか恐い…今日この頃。
(((( ;゚д゚)))アワワワワ
「空気が読めない」とか「常識がない」とか…
そういうことが出来んヤツが虐めの対象になるのは、ちょっと恐い風潮やな。
「空気」にしろ、「常識」にしろ、言いたいことは多数意見に同調しろってことやろ。
「みんながやってる」っちゅうのを一番にするっちゅうのは、「自分」がないっちゅうこと。
まぁ、付和雷同の国民性やから、そういう気をつかったりして、空気を読むことには長けた民族なんやろうけど、それを否定するのはどうなんやろな。
多数意見っちゅうのが必ずしも正しいとは限らん。
現に戦時中の「空気」は戦争することを否定すると、「非国民」と呼ばれた。
平和な現代から見ると、この「空気」がおかしいのが分かるけど、当時は「戦争反対」を言うだけで、まさに現代の「KY」。
今はこれに「DJ」がついて「KYDJ」(空気読めないどころじゃない)っちゅうのもあるらしい。
「みんなが言ってる」から、「みんながやってる」から正しいと思い込むのは危険やと知ってるはずやのに、「空気」や「常識」っちゅう多数意見を大事にする。
まぁ、民主主義っちゅうのは多数決の世界やから、ある意味正しいんやろ。
けど、それは一人一人が考え抜いた結果やないとあかんはず。
意見の対立があって、合意する為に妥協点を探して、多数意見を形成するのが筋やのに、「多数意見に従えない者は悪」とすると、異論も反論も出来んようになる。
多数意見が正しいことの方が多いやろうけど、時には「空気」よりも「自分の意見」を大事にすることがあってもいいと思うし、多数側もそれを聞く耳を持つ必要があるやろ。
ちゅうか、メディアによって「空気」が作られる現状を見ると、この「KY」っちゅう言葉が恐ぁてしゃない。
賞味期限切れ問題をバッシングする風潮なんか、これの典型やな。
個人的には、近い将来「世界大戦」が起こる可能性があると思ってるから、この「KY」っちゅう言葉が流行る風潮は非常に危険性を感じる。
「空気が読める」=「気が利く」っちゅうのを否定するつもりはない。
けど、空気を読む前に、自分の意見が言える人間が一人でも増えて欲しいもんです。
とはいえ、空気の読めん人間も困りもんやけどな。
“r(^_^;)ポリポリ
理想的なんは、空気を読む技術を持ちながら、あえてその空気に逆らえる「自分」を持つことなんやろな。
そうすることで、「自己主張」が自己チューとかワガママにならんように出来ると。
しかも、空気が読めてるにも関わらず、反対意見を言うにはそれなりの説得力が必要になる。
「自分」がしっかりしてないと説得力なんか生まれんわな。
「自分」を成長させたり、自分の意見を確立するのにも役に立つと。
これが理想の姿やろな。
周囲に合わせることも出来、自己主張も出来る。
場面、場面で使い分けの出来る人間になりたいもんです。
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