携帯メールを右手で打つか、左手で打つか調べてたら哲学的になってきた…今日この頃。
“r(^_^;)ポリポリ
少々、強引やけどとりあえず結果報告。
携帯メールは右手か左手か
最初の32通のデータから、今回の瓦版で、ギターやバイオリンなどの弦楽器も操作は左手でするから、これを基に、左手は右脳に繋がってて、右脳は空間認識を司るから、人間の基本構造として、利き手に関わらず複雑な動きは左手の方が適してるからってことを、色々理論付けて書こうと思ってたんやけど…
右手、両手の方が多いのに、そんな結論書けんわな。
“r(^_^;)ポリポリ
今でも、その思いは強いんやけど、その辺は、柔軟なオイラ。
現実を受け入れて、新たな推論を展開するわけで…
まぁ、統計データとして「788」っちゅう母数が、信頼度があるかどうか疑問やけど、ある程度の「傾向」は推察できると思う。
寄せられたメールを分析すると…
この時に書いたように、32、33、34歳辺りが「右手派」と「左手派」が拮抗してくる。
宅配便で再度聞いてみると、これが26歳まで下がった。
まずは統計データ。
母数にかなり偏りがあるので、%表記で、左から年齢、左手、右手、両手の順。
(小数点第2位以下切り捨て 最大値が青で最低値が赤)
左手 右手 両手
16 14.2% 57.1% 28.5%
17 16.6% 50% 33.3%
18 16.6% 58.3% 25%
19 12.5% 37.5% 50%
20 23% 46.4% 30.5%
21 15.7% 47.3% 36.8%
22 14.2% 47.7% 38%
23 22.2% 50% 27.8%
24 24.7% 50% 25.3%
25 26.1% 43.4% 30.4%
26 45.4% 36.3% 18.1%
27 31.2% 43.7% 25%
28 41.6% 50% 8.3%
29 33.3% 41.6% 25%
30 36.3% 54.5% 9%
31 38.8% 33.3% 27.7%
32 33.3% 40% 26.6%
33 36.3% 45.4% 18.1%
34 50% 33.3% 16.6%
35 59.3% 40.6% 0%
36 54.5% 36.3% 9%
37 60.1% 39.8% 0%
38 66.6% 33.3% 0%
39 69.2% 30.7% 0%
40 72.2% 27.7% 0%
※16歳以下、40歳以上は、あまりにも母数が少なすぎるので省略。
これを見ると、16~25歳までは20%台やった「左手」が、26歳を境に30%を超えるようになって、34歳で50%を超える。
それと35歳以降の両手の割合を見ると、この世代に何か劇的な変化があったんやないかと思う。
これを基に推察すると、オイラの世代は、受話器は左手やないと不便やったんやけど、アラサー世代が子供の頃に、受話器がどっちでも支障がない変化があったってことが考えられる。
ここで電話の歴史に注目してみた。
1970年大阪万博で、日本で初めてコードレスフォンが登場する。
オイラは、大阪万博に行ったらしいんやけど記憶がない…
携帯もそうやったんやけど、電話はレンタルしかなかった。
これが、1985年に電電公社が民営化されてNTTになり、自由化されて、販売できるようになる。
その後、1987年にコードレスフォンの販売が自由化される。
1995年にPHSが登場。
この1987年から1995年の間に、子機が劇的に小型化されてる。
22年前から、受話器が右手でも支障を感じんようになって、14年前には操作する手を気にせんでもよくなる。
電話を意識して使い出す年頃が、中学生からやとすると当時12歳やった子をこれに当てはめると…
26歳から34歳になる。
w(°O°)w
データと繋がってもうた。
データから読み解くと、こういう推察になる。
かなり強引やけど…
これと、どっちの手で使うかっちゅう理由から…
左手(利き手と逆)
「メモを取ったり、何かの為に利き手をフリーにするため」
って、左手を使う理由はこれが大多数やったんやけど、それに対して右手は…
右手(利き手)
「利き手の方が操作し易いから」
「利き手の方が操作し易いから」っちゅうのは、至極当然の理由で、そうなると左手は…
メール打つ時にメモを取る必要はないちゃうかな?
となると、携帯メールを打つ習慣が出来る前に、受話器を左手で持つことを躾けられてるってことが考えられる。
社会人になるとビジネスマナーの研修で、受話器は左手で取って、右手でメモを取るようにって躾けられるわな。
ちゅうことは、携帯メールが誕生する前に社会人になって躾けられた人は、左手が多いっちゅう推察が出来る。
一度ついた習慣は、なかなか直せんから携帯メールを使う時も無意識に左手で打つことになる。
それより下の世代は、「利き手の方が操作し易いから」っちゅう理由で、右手になっとるから、それ以降社会人になって躾けられようが変ることは少ないはず。
そこで、また電話の歴史に戻ると…
1999年に携帯電話からのインターネット接続サービスが開始される。
丁度10年前に初めて携帯でメールが打てるようになる。
社会人の最年少は、大卒で22歳、高卒18歳。
その人らは、今28歳から32歳。
これまた26歳から34歳の枠内に入って、プラマイ2歳の誤差。
よって、この世代より上の世代は左手が多くなって、これより下の世代は右手が多いと。
メールでもらった統計によると、こういう推論が成り立って、右手か左手かは、電話機の変化による生活習慣の変化っちゅう結論になる。
と、まとめてはみたものの、最初の推論の「左手は右脳に繋がってて、右脳は空間認識を司るから、人間の基本構造として、利き手に関わらず複雑な動きは左手の方が適してるから」が宿題として残るわけで…
今度は弦楽器の歴史でも調べてみようかな。
まぁ、「どっちの手でも使えるほど、世の中が便利になって自由になった」っちゅうことですわ。
携帯メールが右手か左手かで、ここまで掘り下げられるんやから、無意識でやってることって実は深い意味があるんやろな。
身近の無意識を意識してみると新たな発見があるかも。
気になる「無意識」があったら教えてください。
このレポートに対してのご意見、ご感想、異論反論お待ちしております。
自由と不自由の考察
で、結論として、「どっちの手でも使えるほど、世の中が便利になって自由になった」って書いたけど、逆に言うと電話ですら「不自由さ」を体験してないってことになるんやろな。
つまり「我慢」する環境が減ってると。
オイラの世代は、電話の操作の手を気にするどころか、電話する時に誰が出るかっちゅうのは、かなりの障害になってた。
電話して、オヤジが出た日にゃあんた…
「○○と申しますけど、△△さんはご在宅でしょうか?」
って聞いたら…
「どこの○○だ!!」
(どこのって、あんた、ちゃんと名乗ってるがな。)
って尋問を受けたり…
それとか…
「そんな娘はおらん!!」
(娘の存在を否定してまでつなぎたくないんかい。)
って取り次いでくれんことも…
今は、1人に携帯1台の時代やから直接電話出来るし、メールやったら時間すら気にせんでもよくなったもんなぁ。
「気にしなくていい」ってことは、挨拶とか礼儀とか、コミュニケーションを取る上での面倒臭い作業がいらんようになったってことやな。
いつでも知ってるヤツに直接話せるんやから。
不遇の時代を体験してる人間は、「便利になったなぁ」とか「自由になったなぁ」って実感出来るけど、体験してる人間はそれが当たり前。
「自由」は「不自由」があって初めて実感出来るもんで、「不自由」がなければ「自由」も感じんのやろな。
良いと思う反面、可哀想やと思う。
電話に限らず、「自由」になったってことは「選択肢」が増えたってこと。
それだけ、しっかり「自分」を持ってないと逆に選ばれへんっちゅう状況に陥る。
例えば、3枚のカードから1枚のカードを選ぶのと、300枚のカードから1枚を選ぶのでは、同じ1枚を選ぶのでも、心理的には全く違う。
ある程度決められて狭められた(不自由さ)環境の中で、「自由」を探す方が達成感や満足感、納得感を得やすい。
それに対して、何もないとこ(自由)から、何かを決めるってことは、どれにするかを考えるのも苦労するし、どれくらいで辿り着くかを調べるのも苦労する。
目的地も決まってないのに大海原に放り出されて、海図もコンパスもない状態やな。
自由やけど、自由過ぎてどうしたらええか分からんと。
それだけ「自分の意志」っちゅうもんが重要になったってことやな。
その割りには、「夢を語る」ってことが少なくなった気がするけど…
与えられたものが多過ぎて(自由過ぎて)、探すのに必死ってとこなんかな。
逆に、「探さん」っちゅう「自由」を手にしたんかもしれんけど、自由過ぎて、色んなジレンマに陥って、逆に不自由になってる気もする。
まぁ、それだけ今の若者は、昔の若者より「可能性」が無限にあるってことやけどな。
無限の可能性に負けないぐらい、しっかり「自分」を持って欲しいもんです。
携帯メールをどっちの手で打つかっちゅうことで、こんな訳の分からんことを考えてしまった今日この頃です(汗)
それにしても、携帯メールもそうやけど、たまにはいつも使う手やない方の手を使って「不自由」の中に身を置いて、「自由」を実感するっちゅうのは必要かもしれんな。
脳の活性化にもええみたいやし。
人は、基本的に楽な方に流れていく。
なかなか自分を律するっちゅうのは難しいからな。
これだけ便利で自由な世の中になると、自分への障害は少ない。
自ら、そういう環境を作って、どこまで耐えられるのか、それを克服することは出来るのか…
そうやって、自分を成長させる場を自分で作らなあかんのも、自由さゆえのこと。
「自由」は大変ですわ。
あれしたらあかん、これしたらあかんっちゅう環境(不自由)で、していいこと(自由)を探す方が楽やねんな。
「自由」で「自己責任」が求められる時代。
何してもいい反面、失敗したり間違えたりすると、これでもかってほど叩かれる時代になった。
ある意味、結果に対しては「不自由」な時代になったとも言えるか。
自由やのに、おおらかさとか、寛容さとかがなくなって、殺伐としだしたのも変な話やけど、どこかで「不自由」を作って、自分の「自由」を実感したいんかもな。
現代人は、日頃から「不自由」を作って、それに慣れて、自由の有り難みを実感したり、不自由(失敗とか間違いとか)に対する寛容さを身につけた方がいいかも。
健康やと、病気の人や障害者の苦しみは分からんし、金持ちやと貧乏人の苦しみは分からん。
「自由」も過ぎると、人に対する気づかいがなくなる。
「不自由」だからこそ、気付くことも多い。
不自由を体感して、自分を成長させる糧にして欲しいもんです。
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