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「死」とは何かを考えてみた

一番親しい人間が死んだ…今日この頃。

「辛い」とか「悲しい」とか「寂しい」っちゅう感情もあるにはあるんやけど…

18の時にオカンが死んで以降、何人か「親しい人間の死」っちゅうもんを経験しとるけど、どうにも「死」っちゅうもんをうまく処理できんねんなぁ。

まぁ、「死んだら生ゴミになるだけ」っちゅうのは常々言うとるんで、主観的な「死」はそれ以上でもそれ以下でもないんやけど…

客観的っちゅうか、精神的に「会えない」とか「喋れない」とか「別れ」とかと、「死」の違いを頭の中でうまく処理できんねんなぁ。

生きてる人間でも、「会いたい時に会えない」とか「喋りたい時に喋れない」って事はよくあるし、色んな事情で「二度と会えない」って事もある。

そういう事を考えると、その状況と「死」の違いはない。

って考えると、本当の「死」っちゅうもんは、人の記憶から完全に忘れ去られた時なんやろな。

「他人の死」っちゅうのは、ないのと一緒なんかもしれん。

「自分の死」も死んだことがないからアレやけど、おそらく認識できんから、寝てるのと同じ感覚なわけで、これもないのと一緒。

そう考えると、「死」っちゅうもんがないってことになるけど…

ただ、やっぱり「喪失感」っちゅうのが、どこからともなく湧いてくる。

何回経験しても慣れんもんやな。

まぁ、それも「時間」が解決してくれるんやけど…

何にしても、オイラと関わった人間は、自分の中では絶対に死なさんようにしたいと思います。

「最近連絡なくなったなぁ」

ぐらいの扱いで、オイラが死ぬまでは、その「存在」を忘れんように、消さんようにしたいと思います。

そうすることで…

「人は死んでも生き続ける」

何の為に生まれてきたかはよく分からんけど、死んだ時に、そうやって人の心の中で生き続けんかったら、「存在」自体がなかったことになって、生まれてきた意味すらなくなる。

だから、人は「何か」を残そうとするんやろな。

人と人の付き合いって、「死なさない(忘れない)」って事なんかもしれん。

「生きてる間(会ってる間)」に一杯思い出をつくって、いつ「死(別れ)」が来てもいいように備えとかんとあかんな。

常に「一期一会」の精神で。

死別やなくても、別れはどこにでもあるんやから…

何か、よう分からんようになってきたけど、みなさんも親しい人間を死なさん(忘れない)ようにしてあげて下さい。

それが、その人の「生きてた証」なんやから。

それにしても39歳は早過ぎるわな

しかも、ここでは書けんようなアホな死に方で…

今日でちょうど一週間やけど、どうにも整理がつかんわ。

そう考えると「四十九日」っちゅう時間は、死を受け入れて、それを消化するのにちょうどええ時間かもしれんな。

葬式にしろ、法事にしろ、生きてる人間の為の儀式に過ぎんのやけど、その「時間」の取り方っちゅうのは、今更ながらよくできてると思う。

初七日ってことは、ようやく三途の川のほとりに辿り着いたんかぁとか想像しながら、こういう物語を七週繰り返して、地獄に行くか、天国に行くかが決まる。

誰が考えたんか知らんけど、ほんまようできてるわ。

とにかく、オイラの精神が落ち着くまで後42日かかるみたいなんで、妙なことを書くかもしれんけど、その辺はご容赦を。

まぁ、いつも、妙なことを書いとるからええか(笑)

謹んで故人のご冥福をお祈り致します。


死とは何か さて死んだのは誰なのか











雑記
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