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脳死と宗教観

「脳死」と宗教観は密接に関係してる…今日この頃。
/(-_-)\ ウ~ン

西洋と東洋、キリスト教文化と仏教文化の違いが「脳死」を受け入れるか、受け入れられんかの違いで表われてると思う。

欧米でも、「脳死」って概念が出来た時は、色々混乱もあったけど、「心身二元論」っちゅうか、魂と肉体は別物っちゅう概念が欧米にはある。

体は魂の入れ物っちゅう考え方やから、「脳死」も受け入れやすい。

それに対して、仏教は「色心不二」とか「心身一如」っちゅう言葉があるように、心と体は一体っちゅう考え方やから、「脳死」っちゅう概念は受け入れ難い。

この考え方は、東洋医学と西洋医学の違いにも表われてくる。

西洋医学は、「病気」を対象にしとるけど、東洋医学は「患者」っちゅう人間全体を対象にしとる。

だから、西洋医学は、悪い部分を排除することで治療しようとするけど、東洋医学は、心身のバランスが崩れてるから「病気」になってるっちゅう考えやから、バランスを戻して、健康を取り戻そうとする。

病の元を取り除こうとする西洋に対して、病の元と共存しようとする東洋。

これだけ違うと「死生観」も変ってくるわな。

まぁ、それでも、ぶんぐの読者さんの中でも、「脳死は人の死」とする人が多数やし、世論調査でも「脳死は人の死」が多数派やから、日本人も西洋の合理的な考え方が浸透してきたっちゅうことか。

けど、こうやって「脳死は人の死」と認める土壌が出来つつあっても、「臓器移植」が加わると…

「脳死は人の死」と認める人でも、「我が子が脳死と判定されたら臓器を提供するか?」って聞かれると、「提供する」って答える人は30%になる。

この辺が、頭では理解出来ても、気持ちがついていってないっちゅう心の揺れの表われやな。

こういう人は、我が子が臓器移植が必要ってなると、募金してでも臓器移植を望むんやろうけど…

まだまだ医療の進歩に哲学が追いついてないんやな。

今までは、「臓器移植」なんちゅう治療法がなかったから、「脳死」だの何だの、考えることもなかった。

脳死に限らず、戦争だの貧困だので、「死」も身近にあって、死を受け入れる心構えが出来てた。

それが、医療の進歩で「生きてるのが当たり前」「医者にかかれば治って当たり前」になって、「医療訴訟」まで起こるようになった。

欲望が満たされて、傲慢になってきてるんかもな。

一度立ち止まって、「死」を見つめて、「生きてるのは当たり前」やないことを思い出さなあかん。

「生きてる」んやなくて「生かされてる」からこそ、人間は確実に死ぬ。

人間は、「死」は選ぶことが出来ても、「生き続ける」ことや「生まれる」ことは、自分の意思では選べん。

「生」は、選ばれへんねんな。

「死」を抗うことは出来ても。

結局、「どう死ぬか」でしか、「どう生きたか」を立証出来ん。

現代人は、遠ざけた「死」を見つめ直して、だらだら生き続けるんやなくて、「どう生きるか」を考えるべきやな。

それと、「脳死」を人の死と認めん人に聞いてみたいんやけど、脳が移植可能になったとする。

脳を移植したら助かるAという人がいる。

これは「脳死状態」と同じことを意味しとるんやけど、この人にBという「心臓死」をした人の脳が移植出来るとする。

Bという人の脳を移植したAという人は誰になるんや?

Aなん?
Bなん?

逆の「心臓移植」は、BはBっちゅうのに異論はないと思うけど…

「心臓死は死んでる」、「脳死は生きてる」とすると、この大いなる矛盾に直面することになる。

「自分」とは何なのかっちゅうことやな。

それにしても、脳科学が進歩することにより、「自分=脳」っちゅうのがだいぶ鮮明になってきた。

脳科学は、そのうち「心」とか「魂」っちゅう概念も解明するやろ。

そこまで行かんと「脳死」っちゅうのは、完全に受け入れられへんのかもしれんな。

例え、体が生きてて(動いてて)も、「自分」は死んでるっちゅうことが理解されるのに何年かかることやら…

何にしても、「自分」とは何なのか、「生きてる」とはどういうことなのか、「生きる意味」とは何なのか、たまにはじっくり哲学してみて下さい。


神との対話〈2〉宇宙を生きる自分を生きる











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