地裁、それも左巻きが多い北海道の札幌地裁で、こういうまともな判決が出るとは思わんかった(笑)
どっちにしても、これで法的にも植村隆が従軍慰安婦に関して捏造記事を書いたと認められたわけですな。
慰安婦記事訴訟 元朝日記者の請求棄却 札幌地裁
元朝日新聞記者の植村隆氏(60)が、従軍慰安婦報道の記事を「捏造(ねつぞう)」と報じられ名誉を傷つけられたとして、ジャーナリストの桜井よしこ氏や出版3社に損害賠償などを求めた訴訟で、札幌地裁(岡山忠広裁判長)は9日、植村氏の請求を棄却した。植村氏は朝日新聞社の記者だった1991年に書いた従軍慰安婦に関する新聞記事について、桜井氏が雑誌やインターネット上で「捏造」「意図的な虚偽報道」などと繰り返し断定し、社会的評価を失墜させられたと主張。桜井氏は「記事への論評は名誉毀損(きそん)に該当しない」としたうえで「事実と異なることを書き、記事が誤りだと判明しても意図的に訂正しなかったのならば捏造に当たる」と反論していた。
岡山裁判長は「植村氏が事実と異なることを執筆したと桜井氏が信じる相当の理由があり、桜井氏が記事を書いた目的には公益性があった」との判断を示した。
だいたい、あんたに日本人の名誉が傷つけられとるのに、ようこんな訴訟起こすわ。
ほんま、札幌地裁がまともな判決を出してくれて良かった。
岡山忠広裁判長、本当にありがとうございます。
植村隆のプロフィール
植村 隆(うえむら たかし、1958年(昭和33年)4月28日 – )は、 株式会社金曜日(週刊金曜日発行元)代表取締役社長[2]、 韓国のカトリック大学校招聘教授、元北星学園大学の非常勤講師、 元新聞記者、元朝日新聞社社員。 朝日新聞記者時代に書いた韓国人元慰安婦金学順の証言に関する二件の記事(1991年(平成3年)8月11日と12月25日)が問題となった 。 8月11日の記事は「慰安婦」と「挺身隊」を混同しているとして後日訂正された。経歴
1958年(昭和33年)4月28日に高知県須崎市で生まれる[1]。土佐高校、早稲田大学政経学部政治学科を卒業し、1982年(昭和57年)に朝日新聞社入社。仙台支局、千葉支局に勤務し、1987年(昭和62年)8月に韓国の延世大学に留学。1988年(昭和63年)8月に東京本社外報部に戻り、1989年(平成元年)11月から2年5ヶ月間大阪本社社会部に勤務し民族問題や被差別部落の問題を担当。この期間に問題となった記事を書いた。その後、東京本社外報部に戻り、1993年(平成5年)8月にテヘランの特派員となり、さらにソウル、北京特派員を歴任。ソウル特派員時代に従軍慰安婦に関する記事を19本書いた。最後は北海道支社函館支局長を務め、2014年(平成26年)3月に朝日新聞社を早期退職した。延辺科学技術大研究員や早稲田大学現代韓国研究所客員研究員も務めた。仙台支局時代に結婚したが離婚。現在の妻は、太平洋戦争犠牲者遺族会で働いていた女性(母親は同会幹部の梁順任(ヤン・スニム、양순임)で、従軍慰安婦問題を取材するため訪韓した植村が、証言者となる慰安婦探しに難航している時に知り合い1991年(平成3年)に結婚した。
1991年(平成3年)8月11日、朝日新聞にて大阪社会部時代の植村は「思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」とのタイトルで、金学順が韓国挺身隊問題対策協議会に元慰安婦として初めて証言した録音テープを聞きその記事を書いた。金学順が日本政府を提訴後の12月25日には、本人を直接取材した記事を出した。
2008年(平成20年)11月、朝日新聞にて2007年(平成19年)4月から翌年3月まで連載された「新聞と戦争」取材班の一員として、第8回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞している。
2014年(平成26年)3月、朝日新聞を早期退職。同年4月より神戸松蔭女子学院大学教授に就任予定[15]であったが、当大学は就任前に雇用契約を解消した。
2014年(平成26年)から北星学園大学で非常勤講師として国際交流科目の講義を担当し、主に韓国からの留学生を対象に韓国語で講義を行っている。
2015年(平成27年)11月26日、植村隆と田村信一北星学園大学長が記者会見を開き、植村隆が2016年3月から、北星学園大が留学生の交換などで提携している韓国のカトリック大学の客員教授に就任し、日本語を学ぶ学生らに日韓交流の歴史について教えることになった、と発表した。
2018年5月14日、韓国で日本軍従軍慰安婦問題を提起したことを評価され、第24回キム・ヨングン民族教育賞を受賞。
慰安婦騒動の発端はコイツの記事に原因があるわけで、これで法的にも「捏造」が認められたんやから、外務省は徹底的にロビー活動をして欲しいもんですな。
それと、朝日新聞は世界に向けて、捏造の説明をするように。
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