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阿部定が最後に勤めた元遊郭「大正楼」 近く取り壊しへ 老朽化が激しく倒壊の危険性が高い

こういうのは保存して後世に残した方がええと思うんやけどなぁ。

地元住民が「遊郭があったということに良い印象はない。早く歴史の中に埋没していってほしいと思う」って言うてるけど、それも歴史の一コマやし、今となっては結構貴重やと思うんやけど。

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阿部定がいた元遊郭取り壊しへ 「大正楼」倒壊の危険性高く 兵庫・篠山市

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190221-00010000-tanba-l28
兵庫県篠山市内の市街地にある元遊郭の建物「大正楼」が、老朽化などによる損傷が激しいため、篠山市が「特定空き家」に指定し、近く取り壊されることがわかった。「篠山町七十五年史」によると、大正楼は、昭和初期に愛人の男性を殺害した「阿部定」が最後に遊女として勤めた場所でもある。地元住民は、「崩れ落ちているところもあり、危ない状態になっていたので、取り壊されると聞き安心している」とし、「遊郭があったということに良い印象はない。早く歴史の中に埋没していってほしいと思う」と複雑な心境を吐露している。

連隊移転に伴い設置の「京口新地」

建物は木造瓦葺き2階建て。表から見ると玄関やひょうたん型の窓など、当時のままのように見えるが、背後は崩れ落ちており、倒壊の危険性が高い。

このため市は空き家対策特措法に基づき、昨年12月7日付で現在の所有者に対し、建物の除却か大規模修繕を命じたものの、期限を過ぎても対策が取られていないため、近く除却する方向で計画を進めている。

同町史によると、大正楼がある一帯は、かつて「京口新地」と呼ばれた遊郭。明治41年(1908)、陸軍歩兵七十連隊が同町内に移転したことに伴って設置された。

時期は定かではないが、売春防止法が完全施行された昭和33年(1958)までに京口新地もなくなったとみられる。

当時の痕跡として、数軒の元遊郭の建物が残っていたが、大半が取り壊され、現在は閑静な住宅街となっている。

定の調書にも記述

阿部定が供述した「予審訊問(じんもん)調書」などを収録した「阿部定手記」(中公文庫、前坂俊之編著)によると、東京・神田生まれの定が大正楼に流れ着いたのは昭和6年(1931)で、26歳の冬。当時、源氏名を「おかる」と名乗っていた。

遊郭を転々としていた定は大正楼を、「前よりも酷い」とし、「何しろ寒い冬の晩でも外へ出て、客を引っ張るような辛い勤めをしなければならない」と過酷な仕事だったことを明かしている。

その後、客と駆け落ち同然で逃げ出したものの連れ戻され、源氏名を「育代」に変更。なおも逃亡を試み、「ある時、表の大鍵が下りていながら、かかっていないことに気がついたので、客を送り出した後、店の者を安心させておき、そっとそこを抜け出し、一番電車を待って、神戸まで逃げてしまい、それ以来、娼妓から足を洗ってしまいました」と供述している。

定は昭和11年(1936)、愛人の男性を殺害。逮捕され、懲役6年の判決を受けたが、5年後に恩赦を受け、出所している。バーなどを経営した後、昭和46年(1971)に失踪し、消息不明となった。

地元住民によると、当時のことを知る人は少なくなったが、時折、建物を見物に訪れる人がいるといい、カメラを手に地域を歩かれることに困っているという。

しかも、ただの遊郭やなくて伝説の阿部定が最後に勤めた遊郭やからなぁ。

尚更、歴史的価値があると思うんやけど。

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大正楼の場所

確かに老朽化が激しいけど、ちゃんと保存すりゃ観光名所にもなるんちゃう?

何せ阿部定が最後に勤めた遊郭なんやから。

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阿部定の生涯

阿部定 - Wikipedia

阿部 定(あべ さだ、1905年(明治38年)5月28日 – 没年不明 )は、日本の芸妓、娼妓。阿部定事件の犯人として知られる。

生涯
出生・少女期

定は江戸時代から続く裕福な畳店「相模屋」の阿部重吉・カツ夫妻の末娘として東京市神田区新銀町(現東京都千代田区神田多町)に生まれる。生まれた時は仮死状態であった。母カツの乳の出が悪かったため、1歳になるまで近所の家で育てられた。定は4歳になるまで家族とも会話ができなかった。後に癇癪持ちになり、裁判時にヒステリーと診断されているが、幼児期のこうした体験が関連があるのではとも言われている。

8人兄弟だが長女、次男、三男は幼くして亡くなり、四男は養子に出され、定が神田尋常小学校(現在の千代田小学校)に通う頃には20歳以上年が離れた長男・新太郎、17歳年上の次女・とく、6歳年上の三女・千代の4人兄弟であった。定は母親の勧めで進学する前から三味線や常磐津を習い、相模屋のお定ちゃん(おさぁちゃん)と近所でも評判の美少女だった。孫のように年が離れた末娘に母は稽古事の際には毎回新しい着物を着せ、大人のように髪を結わせて通わせた。また定もこれが似合う美少女であったので定を猫かわいがりしていた父母は鼻が高かった。定の見栄っ張りで少々高慢な性格はこの頃から見受けられるようになる。父母は日常の学校生活よりも歌や踊りや三味線の稽古を優先して育て、尋常小学校の教師からも注意を受けている。そのような環境のためか、10歳になる頃には性行為の意味を知っていた。

高等小学校に進学するも、15歳の時に自主退学している。「当時は親分肌の性格だった」と隣人が証言している。15歳(数えのため満14歳)の頃、大学生と二人でふざけているうちに強姦されてしまった。これが彼女の初体験である。定は出血が2日も止まらず恐ろしくなり、母がその学生と話をしようと自宅まで行くが、本人とは会えず、泣き寝入りする形になる。定は16歳の終わり頃に初潮をむかえた。初潮前に強姦された定はその後不良少女になっていくが、本人の弁によれば「もう自分は処女でないと思うと、このようなことを隠してお嫁に行くのはいやだし、これを話してお嫁に行くにはなおいやだし、もうお嫁にいけないのだ、どうしようかしらと思いつめ、ヤケクソになってしまいました」。母は定をなだめようと優しい言葉をかけたり、物を買い与えたが、逆にそれが癪に障った。

丁度その頃、阿部家は長男と次女の男女問題や家業継承問題でもめており、母は家庭内の揉め事を年頃の定に見せないように小遣いを渡して外に出すようになり、やがて定は現代の金額に換算すると10万円から60万円もの大金を家から持ち出して、浅草界隈を仲間を引き連れて遊びまわる不良娘となっていた。父は時折厳しく定を叱り付け、家から閉め出したり折檻をしている。後に浅草の女極道「小桜のお蝶」とも張り合うようになり地元神田にまで定の名は轟く。

この頃の定の暮らしは、昼近くに目を覚まし朝昼兼用の食事を女中に運ばせ、風呂を済ますと外出し、10人以上の不良少年に取り巻かれ、凌雲閣で映画を見て、映画が終わると居酒屋へ繰り出し、夜遅く帰宅する。他の男性と交際していたが、不良仲間とは肉体関係は持っていなかった。このような生活は1年ほど続いたが、定が16歳の時に、三女・千代の縁談が決まると、体面を保つのと家を追い出される形で女中奉公に出たが、屋敷の娘の着物や指輪を盗んだため警察の世話になり、1か月後に家に送り返された。父・重吉は非常に怒り、それから約1年間、定を自宅で監禁同様に過ごさせている。長男・新太郎が両親の金をありったけ持って蒸発すると、畳屋を店じまいすることになり、阿部家はその頃埼玉県入間郡坂戸町(現:坂戸市)に転居した。しかし、阿部家は都内に貸家を何件か持っていたため、生活に困ることはなかった。

芸妓から娼妓へ

その後の定は男と交際を繰り返し続け、見かねた父と兄は定が17歳の時に「そんなに男が好きなら芸妓になってしまえ」と長男・新太郎の前妻・ムメの妹の夫で女衒の秋葉正義に売ってしまう。定は秋葉に夜這いをかけられ、秋葉は4年ほど定のヒモとなっている。神奈川県横浜市住吉町(現横浜市中区住吉町)の芸妓屋「春新美濃(はじみの)」に前借金300円で契約。源氏名「みやこ」として芸者の世界に脚を入れる。1年ほど春新美濃に在籍し、その後も横浜や長野で芸者として働いていたが、三味線が弾けるとはいえ特筆した座敷芸がない定は、座敷に出ると客に性交を強いられることが多いのが嫌であったという。身売りの金は定の小遣いとなった。1923年(大正12年)の関東大震災の時、定はちょうど秋葉の家に遊びに来ていたが、彼の家は全焼。定は秋葉の家を助けるため、富山県富山市清水町の「平安楼」という芸妓屋に1000円以上の前借金をして店変えをし、前の店に返済した残りの金から300円ほどを秋葉に渡し、秋葉一家の生活の面倒を見るようになった。当時1000円という金額は、立派な家が一軒建つほどの大金であった。

20歳になると定は秋葉に騙されていたことを知り縁を切ろうとするが、「平安楼」の契約書が秋葉との連判であったため、その借金を返すべく1925年(大正14年)7月、長野県飯田市の「三河屋」に移転する。しかし自分で売り込むわけにもいかず、ここでも仕方なく秋葉との連判で契約をしている。ここでは「静香」と名乗り、売れっ子芸者になったものの性病にかかってしまう。父・重吉はどうせ男に懲りて家に戻ってくるだろうと追い出したのだが、「検黴を受けてまで不見転(みずてん。客に体を売る芸者の意)芸者をするなら、いっそのこと」と自ら進んで遊女に身を落とした。この時、母・カツに秋葉との一部始終を暴露し、別の仲介業者を得て移籍手続きをし、秋葉から連判の契約書を返してもらっている。

1927年(昭和2年)、大阪府大阪市西成区にある飛田新地の高級遊郭「御園楼」に前借金2800円で契約、連判者は父の重吉であった。ここでは「園丸」と名乗り、売れっ子娼妓となる。1年ほどすると常連客の会社員から身請けの話が出たが、その男性の部下も定の常連であり、身請け話は立ち消えになる。その後は逃走と失敗、トラブルを起こしては店を変え、大阪・兵庫・名古屋の娼館を転々とし、どんどん客層の悪い店に落ちていった。1931年(昭和6年)、6カ月ほど在籍した篠山の下等遊郭「大正楼」から逃げ出し、娼妓としての仕事を辞めた。

神戸で2カ月ほどカフェの女給をしてから大阪に渡り、高級娼婦や妾や仲居をして過ごす。この頃、男性と毎日肉体関係を持たないと気がおかしくなりそうだと病院に相談しているが、医者は「難しい精神鍛錬の本や思想の本を読んだり、結婚をすればいいだろう」と答えた記録がある。一度は坂戸の実家に戻るが、大正楼からの追っ手が来たため大阪に逃亡。1933年(昭和8年)1月、大阪で母のカツが死亡したという電報を受け取る。翌1934年(昭和9年)正月、日本橋の袋物商の妾をしていた定の元に、父の重吉が重病だという知らせが届く。10日間つきっきりで看護するが、重吉は病死。最期の言葉は「まさかお前の世話になるとは思わなかった」であったとされる。その後も妾を続けていたが、知人から秋葉の娘が死んだと聞き、横浜へ墓参に行くと秋葉は金に困っており、定は指輪を質入し150円を秋葉に用立てる。この頃から定と秋葉の関係が復活する。定は愛人を何度か変えると、ある愛人から婚約不履行で訴えられ、名古屋に逃れる。

1935年(昭和10年)4月に名古屋市東区千種町(現名古屋市千種区)の料亭「寿」で、名古屋市議会議員で中京商業学校校長の大宮五郎と知り合い交際していた。紳士的な大宮は定にとっては今まで会ったことがない男性だった。大宮は娼婦や妾をしていた定を人間の道に外れたことだと叱り、更生するように定を諭した。この頃、本籍を名古屋市東区千種町に変更している。大宮から、まじめな職業に就くようにと諭され、新宿の口入屋を介して紹介されたのが奇しくも石田吉蔵の経営する東京中野の料亭・吉田屋であった。彼は後々定に店を持たせようと考えていた。

「田中加代」の偽名を使い吉田屋で働き始めた定と石田は知り合ってまもなく不倫関係になり、石田の妻もこの関係を知るようになると二人は出奔。定は嘘をつき大宮に逃亡資金を何度か無心している。大宮は後に重要参考人として身柄を拘束され、取調べを受け不問となるが、学校の卒業生に合わせる顔がないとその後は隠居生活を送っている。

ここで出てくる飛田新地の「御園楼」も今は…

コインパーキングになってるし。

まぁ、飛田新地は

まだこういう風景が残ってるからええけど。

何にしても、今の価値観で「遊郭」を排除するよりも、そういう事も受け入れて、歴史的価値、文化的価値を見出す方が健全やと思うな。

壊すのは簡単やけど、壊したら元には戻らんのやから。











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