脳死は、「人の死」やと思う…今日この頃。
今、国会で臓器移植法の改正が議論されとるんやけど、これはほんまやったらWHOが他国に行っての臓器移植を原則禁止にする予定やったから。
まぁ、新型インフルでそれどころやなくったんやけど。
臓器移植をするかせんかは別にして、植物状態とか脳死とか、自分の意思を伝えることが出来んようになったら(ちょっと語弊があるけど)、例え心臓が動いてても、それはやっぱり「人の死」なんやと思う。
ちょっと前にTVでやってたのを見たんやけど、子供が脳死って判定されたけど、それを受け入れられずに、人工呼吸器やら、胃にチューブやらをつけて、髪も伸びるし、身長も伸びてるし、暖かいし、「これで死んでると言われても納得出来ない」みたいなことをやってたんやけど…
それは、やっぱり死んでるんやで。
そりゃ栄養を入れりゃ成長はするやろ。
けど、目覚めることもなけりゃ、自分で呼吸も出来ん。
それって「生きてる」って言えんやろ。
例えば、一生寝て生きられるとして、それを「生きてる」って言える?
親の気持ちは分からんでもないけど、色んなとこに穴開けて、機械つけて、無理矢理心臓を動かし続けたところで、高性能なぬいぐるみみたいもんやん。
ちゅうか、代理母もアレなんやけど、人が人の生死をコントロールするっちゅうのがどうにも…
まぁ、何の目的もなく死んでるように生きてる人間もようけおるから、「それでもええんや」って言われりゃ身も蓋もないけど。
人間って、ただ生きてるだけでええんかね。
「生き甲斐」って言葉もあるように、何かしらやることがあって、色んなことを経験したりするからこそ、「生きてる」んであって、心臓が動いてるから「生きてる」んとは違うやろ。
この、アンパンマンの歌の事を3年前に書いたけど、まさに…
何の為に生まれて
何をして生きるのか
答えられないなんて
そんなのは嫌だ!
ってことやん。
理屈やないんやろうけど、無駄なあがきにしか見えん。
その臓器で助かる人がおると思うと尚更。
個人的には、臓器移植をしてまで寿命を延ばそうとは思わんけど、自分が脳死か何かで臓器を提供出来て、誰かがそれを望んで、それで誰かが助かるなら提供するのはかまわん。
使えるかどうかしらんけど…
ちゅうか、その方が生まれてきた意味もあるような気がする。
「積極的に臓器移植するべきや」とも思わんけど…
それにしても、気持ちは分からんでもないんやけど、死別やないにしろ別れはある。
別れを拒絶するって、わがままでしかないと思うねんなぁ。
無理矢理動かし続けることが、ほんまにその人の事を考えて、その人の将来の為になるなら、それもありかもしれん。
けど、自分が嫌なだけやん。
臓器移植うんぬんは別にして、機械で無理矢理生かし続けるっちゅうのは、どうにも人間の醜い部分が出てる様な気がする。
そんな抗い方が出来るのは、人間しかおらんからな。
それに、仮に将来治せる技術が出来たとして、当然運動機能は衰えてるやろうし、色んな機能が衰えとるやろ。
普通の暮らしが出来るんかね。
臓器移植をするかせんかはええとして、機械で何年も何十年も生かし続けるのは、やめた方がええと思う。
人は、遅かれ早かれいずれ死ぬ。
その時が来るまで、後悔せんように生きればええねん。
死を受け入れることで、「生き方」も考えることが出来る。
たまには、「生きる」や「死ぬ」、死生観について考えてみて下さい。
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