品川駅から新橋駅までの約3キロほど蒸気機関車が海の上を走ってたらしいんやけど、この「高輪築堤」の遺構が浮世絵で残ってるのがロマンですな。
残してくれた浮世絵師に感謝やし、どうにかしてこの遺構を残して欲しいもんです。
「海の上を走る列車」の跡が出土
1872(明治5)年の国内初の鉄道開業時、東京湾の浅瀬に線路を敷設するため造られた「高輪築堤」の遺構が、東京都港区の再開発現場から出土した。かつて「列車が海の上を走る」と東京名所に数えられたが、一帯の埋め立てで姿を消していた。遺構は断続的に約1.3キロメートルにわたり確認。保存状態も良好で、開業時の鉄道の様子や土木技術を知る貴重な手掛かりになりそうだ。◆JR京浜東北線の線路跡から、のり面や水路も
JR高輪ゲートウェイ駅(下)周辺の再開発工事現場から見つかった高輪築堤跡(上)JR高輪ゲートウェイ駅(下)周辺の再開発工事現場から見つかった高輪築堤跡(上)
遺構はJR高輪ゲートウェイ駅西側で、昨年11月の線路切り替え工事までJR山手線と京浜東北線が走っていた線路跡などに広がる。JR東日本と港区教育委員会の調査で、四角い石を積んだのり面や、船で築堤を通り抜けるための水路跡などが出土した。
高輪築堤は鉄道開業2年前の1870(明治3)年に着工。現・田町駅付近から品川駅付近まで約2.7キロメートルにわたり、約6.4メートルの幅で細長く埋め立てた。上に線路を敷き、堤の両側に石垣があった。港区立郷土歴史館によると、この区間の陸地には海軍などの所有地があって線路を通せず、海上ルートが採用された。築堤には切れ目が4カ所あり、陸地から線路をくぐり東京湾に出る水路になっていた。その後、明治末期から昭和初期にかけて周辺が埋め立てられ、築堤の所在は不明になっていた。
JR東日本によると、昨年4月、品川駅改良工事で石垣の一部を発見。高輪ゲートウェイ駅西周辺の再開発で掘削したところ、さらに石垣が見つかり、今年8月に調査を始めた。
◆「文化財的な価値高い」
早稲田大の谷川章雄教授(考古学)は「上に京浜東北線などが通っていたため、築堤は壊れていると考えていたが、よく残っていた。国指定史跡になっている旧新橋停車場跡につながる鉄道遺構で、文化財的な価値は非常に高い。明治初期の土木技術を知る上でも重要だ」と話している。
明治時代に海の上に線路を敷くっていう発想をして、それを実現させるのが凄いな。
クレーン車なんか当然ないし、埋め立てるのもかなりの労力やったやろうに、それでもこれだけ見事な物をつくってるんやからなぁ。
城なんかでもそうやけど、あんな大きな石を人力で山の上まで運んでるんし、昔の人ってのは精神的に肉体的ににも超人やったとしか思えんわ。
で、この遺構と全く同じ浮世絵があるんやけど…
海の上を走る陸蒸気
明治5 (1872)年、新橋駅(現・汐留)と横浜駅(現・桜木町)の間に、日本初の鉄道が開通しました。
鉄道開業当時、品川駅から新橋駅手前まで約3㎞弱の区間の線路は、東京湾の海の上を走っていたのです!海の上に線路を敷設した理由
現在では文明開化の象徴とされる鉄道ですが、最初から歓迎されていたわけではありません。
軍事力増強を求める兵部省(軍)は、特に鉄道建設に反対し、海岸沿いの用地の引き渡しを拒んだだけではなく、旧薩摩藩邸のあった高輪付近では測量さえ許可しませんでした。陸地を使わせてもらえなかった鉄道省は、やむを得ず沖合50mほど先に堤を築き、その上に線路を敷設することにしたのです。当時の高輪海岸は遠浅であったため、この海を埋め立てて線路を敷く計画があがったのは、明治2(1869)年のことです。
この埋め立て工事には、高輪や品川の海で漁業を行っていた人達や東海道筋で商売を行っていた人達から反対の声が上がりました。この場所は、江戸時代から漁業や海苔の生産が盛んで、八ツ山付近は魚屋や茶屋が立ち並ぶ賑やかな街道だったためです。明治政府は彼らに金銭的補償などを与え、ようやく線路が敷設されることになりました。鉄道開通当時、人々は蒸気機関車のことを「陸蒸気(おかじょうき)」と呼びました。海上を航行する蒸気船に対し、陸上を走ることから名付けられたのでしょう。実際には、陸蒸気は海の上に敷設された線路の上を走っていました。この様子は、鉄道開通の様子を描いた当時の錦絵にも描かれています。
また、鉄道建設に当たり、品川御台場の一部は取りこわされ、その石材を鉄道の工事に使用したと言われています。
この浮世絵が
これと全く同じって事に感動したわ。
これ以外にもハーバード大が所蔵してるのがるんやけど
これを明治時代につくってたのが、ほんま感動する。
さすがは土木立国の日本ですわ。
今は土木業界の劣化が激しいけど…
Twitterの反応
えっ…ま、まさか明治政府肝煎のあの高輪築堤が今この時代に出土するとは!???
ぜひこのままの形を活かして何らかの形で残して欲しい。
高輪築堤についてはこちらが参考になると思います。https://t.co/zXtJLSDvP5 pic.twitter.com/ssF6m64zjK— 大久保利通公・墓所おそうじの会 (@okuboko_osouji) November 22, 2020
高輪ゲートウェイ駅の再開発工事で出てきたやつすげー。本で見たやつとそっくりだ。 pic.twitter.com/l1rx7a9Tp0
— 鉄道界隈NEWS24 (@SEKAIITIRINGO) November 22, 2020
高輪築堤が出土した件、高輪ゲートウェイ駅前からそれらしき石垣を現認 pic.twitter.com/hCe8B2Oc6t
— 島村 ? Shimamura (@toike_shimamura) November 22, 2020
水路が見えねェ pic.twitter.com/HbSVh8GDNo
— 島村 ? Shimamura (@toike_shimamura) November 22, 2020
高輪ガード下。
桁下が非常に低くて有名だったガードだけど、実はこれ水路の名残。
京浜東北線が走ってた部分がゲートウェイ駅移設で無くなった分開けて見えて驚く。
これから品川寄りが今回の遺跡の水路跡部分だな(田町方面にも続いてはいる) pic.twitter.com/OaHNFVbDDN— ルミケ (@milke_foundry) November 22, 2020
明治3年頃民部省土木局鉄道掛による京浜間鉄道敷設のための測量にあたる士族は、両刀手挟んで測量を行っていたという興味深い記事。
髷を結って陣笠、羽織袴(野袴?)、大小で測量、伊能忠敬の測量と同じような感じになるのかしら?
なにせ、どなたか再現されたら是非見てみたいもの。 pic.twitter.com/02A0CrEcNt— 駅長 山本留吉 (@Y_Tomekiti) July 8, 2018
高輪ゲートウェイ周辺再開発で線路「高輪築堤」の跡が見つかった件、歌川らが描いていた奇跡的な風景が本当にあったんだなぁ、と改めて感激するよね。https://t.co/QO3027loWG pic.twitter.com/BsOrxr9msM
— なかむらけんじ (@Ken_ji_Nakamura) November 22, 2020
何にしても、これはかなり貴重な遺構なんで、保存状態も良いし、どうにかして残して欲しいもんです。
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