これは、なかなか面白い(笑)
言葉は常に変化するし、コミュニケーションツールなんで、「正しい」だの「間違ってる」だのって言うところで、それを使う人間が多数派なら、それを使わなコミュニケーションが取れんようになるから、「間違ってる」って言うてもしゃあないって常々言うてたんやけど、こういうのを知るとますますそう思う。
「ら抜き言葉」で抜けているのは「ら」じゃない? 予想外の真相が…「正しい日本語」論争への答え
島田教授によると、「ら抜き言葉」はその名のとおり、可能の助動詞「られる」の「ら」が抜けたと取られるのが一般的。しかし、抜けているのは「ら」ではなく「ar」だ、とする見方も成り立つのだそうです。「見られる→見れる」「食べられる→食べれる」の変化をローマ字で書いてみると
「mirareru→mireru」「taberareru→tabereru」
となります。こう書いたときに、途中にある「ar」が抜けていると見ることもできます。
この「ar」抜き現象、「ら抜き言葉」に限らず、可能表現全般に起こっているというのです。
ほんまや(笑)
「ら」やなくて「ar」が抜けてたんか。
この変化は…
この表現に対して、室町時代ごろから「行ける」「歩ける」といった可能動詞が生まれ、もともとあった「行かれる」「歩かれる」と併用されるようになりました。若い人には「行ける」「歩ける」の方がなじみ深いかもしれません。「行かれる→行ける」「歩かれる→歩ける」の変化をローマ字で書いてみると
「ikareru→ikeru」「arukareru→arukeru」
となり、「ar」が抜けていることがわかります。
室町時代からあったと。
若くないけど、確かに「歩かれる」って使わんもんな。
「ar」が抜けるメカニズムについては、「動詞+助動詞」という組み合わせで可能を表現していた時代から、一語化した「可能動詞」が成立した、と説明できますが、ではそこで抜けるのがなぜ「ar」なのかについては、「説明は難しい」とのこと。「こういった言葉の大きな変化には、言葉自体に仕組まれたメカニズム、社会の変化など、いろいろな要因が関係している」と話します。
感覚的なもんやからなぁ。
こっちの方が言いやすいって誰かが使って、それが耳に馴染んで広まれば、それが主流になるやろうし。
まぁ、「言葉は生き物」って事ですな。
言葉の変化自体はええんやけど、問題なのは…
長い時間をかけて生じた言葉の「時代差」と、祖父母世代と孫世代が共存する中でリアルタイムに起こる「世代差」のふたつは、「別ものと思われているけれど、実はひと続き」で「スケールが違うだけ」と話します。「行かれる→行ける」の変化が出だしたのは、室町時代ごろ。対して「見られる→見れる」のいわゆる「ら抜き言葉」が登場しだしたのは、大正・昭和時代からだそうです。
「行かれる→行ける」のように、長い時間をかけて生じた言葉の「時代差」については、私たちも「言葉は移り変わるもの」と許容しがちです。
しかし、「見られる→見れる」という、祖父母世代と孫世代が共存する中でリアルタイムに起こる「世代差」については、「正しい日本語ではない」「日本語が乱れている」として許容したがらない傾向があります。
「日本語が乱れてる」って言う人な。
公式の文書とかオフィシャルの場なんかならいざ知らず、普段の話し言葉で「それは違う」って言うてもしゃあないねん。
「じゃあ、あんたは使わんかったらええやん」としか言われへん。
そもそも、今の日本語にしたって、昔の日本語からしたらだいぶ変わってるんやし、「日本語が乱れてる」って言う人の日本語も、その人より昔の人から見たら乱れてるわけで…
島田教授は「言葉は生き物で、短いタイムスパンでも変化するもの。小さな変化の積み重ねが大きな流れを作り、人間がささやかな抵抗をしたところで、とうてい止められない場合もある」と話します。また、「言葉づかいが、話し手の知性や品性を表す目印となる場合もあるため、世代を超えて通じる『正しい』日本語を身につけることは、もちろん大切。しかし、日本語を研究する人間としては、新しい世代の新しい言葉づかいに対して、『正しい』『正しくない』だけではなく、『言葉が変化している』というまなざしも持ってほしい」と期待しています。
「言葉は変化する」って事を頭に入れておく事が大事やねんな。
まぁ、「正しい日本語」ってもんを知ってないと変化にも気づかんし、ベースがなくなると言葉自体もめちゃくちゃになるんで、「正しい日本語」を覚える必要はないって話やないけど。
何にしても、なかなか面白い話が知れて、勉強になりました。
何に活かせるか知らんけど。
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